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ストーリー1

オリンピックの通訳担当に学生を採用した時代
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開会式で空に描かれた五輪

—– 島田さんは、1964年東京オリンピックが開催された時には、慶應義塾大学4年生で東京オリンピック組織委員会の上級通訳をされたわけですが、当時はオリンピックに対してはどのような思いがあったのでしょうか?

正直言って、当時はオリンピックの開催意義などということは、あまりわかっていなかったと思います。とにかくアジアで初開催のオリンピックに自分が少しでも携われるということに対して、感動と感激しかありませんでした。

—– 東京の街の変化というのは、学生の島田さんにはどのように映っていましたか?

もちろん、東京オリンピックに向けて東京中の人たちが心躍らせている雰囲気は感じていましたが、街の様子がどのように変わっていったかということは、あまり覚えていないんです。というのも、私は通訳として8月から11月初旬まで、約3カ月間、組織委員会直属の通訳として仕事をしていましたから、外の様子をじっくりと見るということがありませんでした。

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選手村にて外国選手と

—– 東京オリンピックでは、学生が通訳を担当したということですが、当時はプロの通訳はいなかったのでしょうか?

もちろん通訳専門の会社もありましたし、プロの通訳はいました。ただ、当時オリンピックはアマチュアリズムを徹底していて、通訳においてはすべて学生を前面に立たせていたんです。当然、プロに比べれば力は落ちますが、それでも学生を起用した当時の東京オリンピック組織委員会は、今考えるとすごいなと思いますよね。

—– 通訳の募集はどのように行われたのでしょうか?

開幕1年前から都内の大学には、「オリンピックの通訳担当に、語学が堪能な学生を募集する」というような話が来ていて、学生の中では大変な騒ぎになっていました。

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慶応大学英語会(ESS)のメンバーと(大学3年)

—– 当時、島田さんは慶應義塾大学の英語会(ESS)の委員長を務めていました。

実は、私は副委員長で、委員長は別の帰国子女の人が務めていたのですが、まぁ、いろいろありまして(笑)、私が事実上委員長をしているようなものでした。慶應義塾大学の英語会というのは、非常に伝統あるサークルでありまして、当時は400人ほどいました。毎年、全国英語ディベートコンテストでは優勝するのが当然で、優勝しないと先輩方から叱られてしまうんです。私はディベートを担当していまして、委員長とペアを組んでコンテストに出場したのですが、準優勝でした。そうしたら、先輩方に呼び出されまして「お前ら何をやっているんだ!なんで優勝しないんだ!」とこっぴどく叱られたという思い出があります。

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組織委員会事務総長を務めた与謝野秀氏
トップ中のトップ通訳10人に選抜

—– そんな全国的にも優秀な慶應義塾大学の英語会副委員長としては、オリンピックの通訳の話は「千載一遇のチャンス」とばかりに飛びつかれたのでは?

はい、その通りです。私だけでなく、学内の英語に堪能な学生はみんな、「自分もオリンピックに携わりたい」ということで応募していました。

—– テストはあったのでしょうか?

ありました。どんな内容だったかはあまり覚えていないのですが、とにかくテストの結果によって採用通知が来まして、採用された学生は「どこの国のどの競技」というように担当が伝えられていったんです。慶應義塾大学の英語会の仲間たちも次々と通知が来まして、担当が決まっていったのですが、なぜか私にはなかなか通知が来ませんでした。

「あれ、もしかしてダメだったのかな」と思っていたら、しばらく経って、ようやく通知が来ました。そしたら「代々木の岸記念体育会館に来てほしい」という内容だったんです。それで岸記念体育会館に行くと、私の他にも大勢の学生が呼ばれていまして、東京オリンピック組織委員会与謝野秀事務総長が「君たちは選ばれた100人だ。他の学生とは違い、選手団団長付の通訳として頑張ってもらいたい」と言ってくださったんです。

—– 特別な100人に選ばれたということですね?

はい、そうなんです。他の学生通訳は競技会場を担当するのですが、私たちは参加100カ国の選手団団長専属の通訳ということで、「常に団長の側で支える役割」を仰せつかったわけです。団長には組織委員会からトヨタのクラウンが公用車として1台支給されていまして、団長付の通訳はそのクラウンに乗って隣の席に座ることができました。

—– それは大変名誉な任務を授かったんですね。

しかも、その100人の中でもさらに優秀な10人については、どの国の団長に付きたいかを選ぶ権利が与えられまして、私も光栄なことにその10人に選ばれました。

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柔道競技をご観戦のベアトリクス女王と皇太子(当時)ご夫妻

—– 島田さんが希望した国はどこだったのでしょうか?

オランダです。ベアトリクス王女が来日することも知っていましたし、柔道とフェンシングが強いことで有名で、東京オリンピックでは前評判が高い国のひとつだったんです。希望通りにオランダの団長付となったのですが、しばらくしてまた岸記念体育会館に呼ばれました。すると「実はオランダから『オランダ選手団は英語の通訳は要らないので、彼には自転車の競技会場に行ってもらい、代わりにオランダ語の通訳が欲しい』という連絡がきているんだ」と聞かされました。

「じゃあ、自分はどうなるのかなぁ」と思っていたら、与謝野事務総長がこう言ってくださったんです。「あなたは何万人の学生の中から選ばれたトップの10人なんだから、自転車競技会場に行かせるというわけにはいかない。だから、組織委員会としてはオランダ選手団には学生通訳は付けないことにした。とはいえ、あなたは団長付の資格を持っているわけだから、オランダの団長に支給する予定だったクラウンは、あなたが使いなさい。その代わり、その時々で一番忙しい現場に行ってもらいますので、よろしくお願いしますね」と。つまりは、組織委員会直属のようなポジションを与えていただいたんです。

—– では、学生の島田さんお一人のための公用車が支給されたわけですね。

そうなんです。しかも、五輪マークの旗をはためかせたクラウンですからね。もう、きんと雲に乗った孫悟空の気分でしたよ(笑)。

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自宅前で通訳の制服を着て
英語漬けの日々で「I shall return」宣言を実現

—– わずか10人の団長付通訳になるほど、英語の達人だった島田さんですが、そもそも英語を勉強したのは何がきっかけだったのでしょうか?

実は、私は高校2年の時まで英語がからっきしダメだったんです。ある日、私の家の修復に長髪のアルバイトのお兄さんがペンキを塗りに来たんですね。聞いたら、彼は早稲田大学の学生で、僕に「英語がうまくなりたいんだったら、いい方法を教えてあげるよ」と言ってくれたんです。「どうしたらいいんですか?」って聞いたら、「とにかく外国人と話すこと。誰でもいいから、自分からつかまえて話すようにしなさい。それくらいやらないと、英語なんて話せるようになんかなれないよ」と。

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名門慶応大学端艇(ボート)部のクルー

—– 島田さんは高校時代までボート部に所属していて、舵取り役のコックスを担当されていました。オリンピックを狙うほどの選手だったと聞いています。

慶應義塾大学ボート部は、単独のチームで何度もオリンピックに出場している名門で、そのボート部から、高校の時にコックスとしてスカウトされたんです。それで、高校2年の時には東京オリンピックを意識しての強化合宿が始まっていました。ですから、当時はボートの練習に明け暮れていて、英語を勉強する時間なんてなかったんです。ところが、高校2年の時に体を悪くして、ボート部を辞めざるを得なくなってしまいました。その後は、水泳部に入ったのですが、ちょうどその頃に英語に興味を持ったんでしょうね。ふと気づけば、スポーツばかりして、勉強は何もやってこなかった自分に気付いて、英語を勉強してみようかなと思ったのがきっかけでした。

—– ペンキ屋のお兄さんの言う通り、外国人には話しかけられたんですか?

はい、話しかけましたよ。高校3年の夏に房総半島の突端の天津(漁師町)の知人宅に素潜り三昧で滞在した後、帰りの電車の中にブルーの軍服姿のアメリカ人が乗っているのを発見したんです。おそらく空軍の士官だったのでしょう。これはチャンスだと思いました。ところが、やっぱりなかなか話しかけられなくてね(笑)。「どこで話しかけようか……」と思っているうちに、もうすぐ自分たちが電車を降りる駅に到着するいう所まで来てしまったんです。「これを逃したら、僕は一生英語ができない」と思って、ようやく勇気を振り絞ってアメリカ人に近づいていって、肩を叩いたんです。そのアメリカ人は突然のことで驚いたんでしょうね。「What?」って言ってきました。それで僕はありったけの英語を使って、「I am a high school student. My name is Haruo Shimada.」って言ったら、「Good for you.」と言われましてね。それだけでもう乗り換えなければいけない駅に到着してしまったのですが、もう天にまで昇る気分で自宅まで帰ったことを今でも覚えています。