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最終講義

島田晴雄教授最終講義録
「慶應義塾と私:若い諸君へ」

平成19年3月3日開催
於:慶應義塾大学
三田キャンパス
北新館ホール
文責:峯野哲也

Ⅰ. はじめに

 本日は加藤寛先生をはじめとする諸先輩の皆様、塩澤修平経済学部長をはじめとする多くの友人の皆様、島田ゼミ卒業生および学生諸君等、かくも多くの皆さんに休日にもかかわらずご参集いただき、心より感謝を申し上げると同時に恐縮している。 本日、私は「慶應義塾と私:若い諸君へ」というテーマでお話申し上げたい。次の世代に向けて私の思いを語りたいと思う。


Ⅱ. 慶應義塾大学での40年

  1. 学生時代
     最初にこれまでの私の半生を振り返り、その経験を踏まえて、特に若い人々のために、私の思いを伝えたいと思う。
     私は慶應義塾大学に奉職して40年になる。しかし、私と慶應義塾との縁は慶應普通部、すなわち中学生の頃にまで遡る。
     私は体を強くしたいと考えて柔道や水泳などを行っていたが、高校生の時には端艇部からスカウトされ、コックスを務めた。当時、私が大学4年生になる年に東京オリンピックが開催されることが決まっており、5年間の強化プログラムが組まれていた。慶應義塾の端艇部の若者を中心としてクルーが編成されていた。そして私も高校生の頃から合宿に参加していた。しかし、雨の日も風の日も固いシートに座り続けていたために痔を悪くしてボートを降りざるを得なくなり、オリンピックに出場することはできなかった。オリンピックには、サブコックスだった萬代君が出場した。その後、私は水泳部の葉山部門に転じ、遠泳のグループに参加して千葉県の館山沖で泳いでいた。
     大学に入学後、私は英語会に入会した。ゼミナールは川田寿教授のゼミナールに入会した。この頃、父が他界したために学費は自分でアルバイトをして稼がざるを得なくなった。1週間あたり4人の生徒の家庭教師を引き受け、毎晩2人に勉強を教えていた。それでも楽しかった。当時、私には「Mr.タボ」というあだ名がついた。「タボ」は「多忙」に由来していたようだ。
     そのような日々ではあったが英語の勉強は続け、私は東京オリンピックの通訳に採用された。当時のオリンピックは完全にアマチュアリズムに則っており、通訳も学生を採用していた。通訳として1000人の学生が採用されたが、私はその中で優秀な100人の1人とされ、さらに最も優秀な10人の中の1人に選ばれて、「団長付」に指定された。私はオランダ選手団の団長付通訳を選択したが、オランダ側が団長付の通訳は、オランダ語の通訳を要請してきたので、日本のオリンピック組織委員会は、私をオランダ選手団の団長付から外した。団長付の資格はそのまま持っていたので、いわば遊撃隊として最も忙しい場所で勤務をすることになった。お陰で当初は報道関係、選手団が到着を始めると羽田空港、開会式、各種競技の決勝戦などの場面で勤務をし、記録に残る名勝負や名場面を直接目撃することができた。東京五輪で世界の名花と歌われたチェコのチャスラフスカ選手と選手村でダンスをしたのも忘れがたい思い出である。
     その一方で私はゼミを大切にしていたので、ゼミのある日は五輪の旗をはためかせた公用車を三田キャンパスまで走らせ、ゼミに出席するようにした。南校舎に車を横付けにし、胸に日の丸の黒いブレザー制服を着て階段を駆け上がる私に教務課の女子職員が拍手を送ってくれた。青春を謳歌したひとときである。
     大学の卒業時、私は表彰学生に選ばれた。その当時は現在とは学則が異なり、現在よりも多くの科目を履修することができた。そして私はA評価を53科目で、B評価を4科目で取得した。これは前人未到の成績だったと聞く。
     その当時、私はどのような生き方を選ぼうか真剣に考え始めていた。このため、自分の将来について思い悩んだ。これは現在の学生諸君と同様である。そして自分探しのために原稿を書いた。その量は原稿用紙で400枚に達した。産業界に進むこと、国際機関に入ること、教育者になることなどを思い悩んだが、一人で頑張るよりも教育者になって自分の考えを理解してくれる人を多く育てれば自分の力が何十倍にも何百倍にも広がる可能性があると考え、教育者になる道を選び、大学院に進むことにした。

  2. 大学院 - 助手
     私は、日本の労働運動の専門家である川田寿教授の下で年功制の研究に取り組んだ。その当時、慶應義塾には特別研究生という制度があり、これに採用された。当時4万円くらいの奨学金を支給された。これは当時の企業初任給と同水準であり、十分に生活できた。私は一生懸命に勉強に励んだ。ある日、神田の古書店でダンロップ教授が著した『Industrial Relations Systems』を見つけた。ダンロップ教授は後にアメリカの労働長官に就任した人物であるが、その蝶ネクタイを着用した特徴ある服装はダンロップ・スタイルと呼ばれて有名だった。当時、ダンロップ教授は近代的な労働経済学を創始していた。私は大変に感銘を受け、一生懸命に読み、そして労働経済学を志そうと思った。慶應義塾大学は計量経済学が大変に進んでおり、辻村江太郎教授、佐野陽子教授、小尾恵一郎教授、尾崎巌教授といった国際級な計量経済学者が揃って活躍していた。一方、川田寿教授はいわゆる制度派であった。私は計量経済学と制度派とを結び付けて勉強していた。

  3. アメリカ留学
     そして私はアメリカに留学した。フルブライト奨学金を得たが、私は経済部門でトップの2人の中の1人に選ばれた。私はコーネル大学に留学した。留学をすると4、5年はアメリカに滞在することになる。そのころ私はかつてのクラスメートの妹を結婚相手として考えていたが、ある人の勧めで思い切って留学する前に結婚することにした。それが今、私の目の前の最前列に座っている妻の君子である。コーネル大学では最初からドクターコースの演習に参加することが認められた。その後、私の指導教授が政府の官職に就き、ワシントンに移ってしまったため、私はウィスコンシン大学に転籍した。ウィスコンシン大学はアメリカの労働研究のメッカというべき大学である。一般に大学院の学生は4コースを履修するのが通例だったが、私は4コースを履修した上で4コースを聴講していた。日中は講義・演習に出席し、夜中に本を読んでコンピューターで分析を行っていた。当時既にアメリカの大学ではコンピューターを24時間使用することができた。私は朝4時まで勉強し、一時帰宅して仮眠を取った後にすぐに大学に行くという生活を続けた。その成果もあったと思うが、全米労働研究奨学金を得られる20人の中の1人に選ばれた。外国人は私1人だった。その奨学金を私はジョージ・シュルツ長官から直接に授与された。その金額はアメリカの大学の助教授の給料よりも高額だった。その潤沢な資金を活用して私は愛車フォルクスワーゲンに家族を乗せてシーズンごとにアメリカ大陸を東西南北に旅をし、36州をドライブした。また、私は多くの友人たちと知り合った。現在MITの主任教授を務めるトーマス・コーハン氏もその1人である。現在、各界でトップとされている多くの人々と友人になった。世界で一番良い友人を作ると一生の宝になる。

  4. 教授‐教育、研究
     1974年に帰国し、慶應義塾大学の助教授に就任した。そして島田ゼミを設立した。現在の島田ゼミの3年生は30期に当たり、既に約600人の卒業生を輩出している。私は学生に「三種の神器」、すなわち名刺・印鑑・はがきを常に準備するように指導している。名刺で自らの氏名と連絡先とを明示する。印鑑は責任を表す。そして会った人にはすぐにお礼のはがきを出す。島田ゼミではこの点を徹底させており、例えば工場見学に行った際には各学生がお世話になった人全員に対してお礼のはがきを出している。これは当然のことだと思うが、今までこのことを学生に教える教師はいなかったのが実情だと思う。さらに、島田ゼミでは、一般的な卒業論文の指導やサブゼミといった活動に加え、ディベーティングにも力を入れている。また、島田ゼミはアクションゼミと言われ、4つの分野で特別の活動をしてきた。国際活動では、韓国、中国、台湾などの学生諸君と定期的に夏の合宿をお互いの国で行うアジア学生国際会議を推進してきた。福祉については、精神的な障害のある子供たちの社会参加を進めるスペシャルオリンピックスへの支援、環境に関連して紙ゴミのリサイクル活動を地域で推進し、また、国防に関しては海上自衛隊と定期的な交流会をもって安全保障の勉強をしてきた。
     島田ゼミの活動が始まった1974年当時、日本は石油ショックの影響を受けていた。「日本沈没」などと言われた。しかし日本はこのショックから2年で立ち上がり、嵐が去ると日本が世界の先頭に立っていた。日本は大変なインフレコストを抱えたもののこれを調整し、「日本の奇蹟」と言われた。この問題については私も関心を持って研究に取り組んだ。その当時、「三方一両損」と言われた。つまり経営者・労働者・国の三者が損をしながら石油価格の高騰によるコストを負担した。私はそのようなことが可能になった理由に関心があった。日本が高度成長を始めた以降の経験は世界各国で盛んに研究が行われており、また終戦直後の数年間は占領下ということもあってアメリカをはじめ各国での研究も詳しく行われていた。ところが、その2つの期間の間の1950年代の研究は国際的にはほとんど空白と言っても良い状態だった。
     研究を進めていくうちに、私は1950年代に秘密があるということに気付いた。1950年代の政府の産業政策は見事なものだったし、産業構造を傾斜的に形成していたことも功を奏した。さらに技術導入が素晴らしい成果を挙げた。そしてこの時期に労使関係が大きく変化した。これらの条件が揃ったことが高度経済成長を可能にしたと考え、多数の論文を執筆した。すると世界から注目されるようになり、世界各国から招かれて研究報告を行うようになった。いつしか私は“flying professor”と呼ばれるようになった。1年間に十数回、海外出張に行くようになった。そしてMITやESSEC(フランスの経済経営グランゼコール)で研究・教育に携わった。MITが中心となった世界自動車産業研究プロジェクトにも参加した。これは世界的にインパクトを与えた研究となった。
     MITで研究を行っていたある日、私の研究室のドアを叩く人物がいた。ドアが開くと、そこには白髪のダンロップ・スタイルの人物がいた。その人こそダンロップ教授だった。私は神様が来たと思った。私はアルバイトをして得たお金でダンロップ教授の本を買って勉強した。そのダンロップ教授が、私がMITにいるということを聞いて訪ねてきたのである。その後、ダンロップ教授とは親交が続いた。当時、ダンロップ教授はハーバード大学で特別セミナーを担当していたが、私のことを労働の第一人者として紹介してくれた。ダンロップ教授を日本に招聘して世界生産性会議を開催したこともあった。

  5. 政策とのかかわりと小泉政権
     私は次第に政策にかかわることが増えてきた。
     助教授に昇任した後、4年にわたって経済企画庁経済研究所の客員主任研究官を務めた。これは課長待遇だった。さらに産業構造審議会、財政制度審議会、政府税制調査会、規制改革委員会等に参加し、対日投資会議では部会長に就任した。
     私は特に宮沢首相・細川首相・橋本首相・小渕首相にはさまざまな形でお手伝いをしてきた。細川内閣の頃には官邸に住み込んでいるかのように深く関わり、さまざまな思い出がある。また、橋本首相にも大変にお世話になった。橋本内閣の下で「沖縄県における米軍基地所在市町村の将来の振興に関する官房長官の私的懇談会」が設立されて私はその座長に就任し、爾来数十回にわたって沖縄県を訪問している。この懇談会は当時の梶山官房長官の大変な努力によって1000億円の予算を使えることになり、これまでに沖縄県で43事業を進めてきた。私自身にとっても大変に貴重な知見を得ることができた。
     そして小泉政権が誕生した。小泉内閣が成立する以前に、実際に小泉政権が発足した場合に備えた研究を行うことになり、竹中平蔵氏らが中心となって経済学者によるtomorrow cabinetを作っていた。香西泰氏が「首相」となり、竹中氏と私が「官房長官」を務めた。この研究会の研究の成果をやがて総裁選への立候補を考えていた小泉議員に度々御進講を繰り返すことになった。小泉内閣が現実に発足すると竹中氏は経済財政政策担当大臣に就任した。私は内閣総理大臣補佐官への就任を打診された。しかし、内閣総理大臣補佐官に就任すると慶應義塾大学を退職しなければならなかったため、断った。すると当時の福田官房長官が内閣府特命顧問というポストを新設してくれたので、内閣府特命顧問に就任した。そして明るい構造改革の推進、530万人雇用創出計画の実現に取り組んだ。具体的には、子育て支援、安心ハウス・ライフモビリティの普及、住宅流通の促進、健康と観光の振興といった課題に取り組んだ。観光カリスマの選定も行った。観光カリスマとは、日本の観光の発展のために渾身の力で活躍している100人を選定するものである。

  6. 千葉商科大学へ
     民間企業や事業家たちとの交流も行っている。複数の企業で社外取締役や監査役に就任した。例えば、旭硝子、電通、ミレアグループ、岡谷鋼機などで社外取締役・監査役等を務める他、富士通総研の経済研究所の理事長もさせて戴いている。
     また、生活産業創出コンソーシアムを設立して活動した。これまでの日本はアメリカに工業製品を輸出することを目標として努力してきた国であるため、次第に高齢化・成熟化が進んでいるにもかかわらず生活者にとって多様な選択肢が存在しない。生活関連の分野はいわゆる官製市場の領域である。このため、生活に関連した新産業を創出するために、産業界の心ある人々の支援を頂きながら活動を行った。
     さらに現在、島田塾の活動を行っている。これは特に自分で会社を興した経営者たちが中心となっている。バイタリティがあり、志が高く、活気に満ち溢れた人々だ。このような人々と共に勉強したいと考えて島田塾を組織した。現在、約180名の会員がいる。男性・女性を問わず、よく学び、よく遊ぶ会である。本当によく勉強しているし、ゴルフ大会や地方イベントなどの企画には多くの参加者がある。私も会員の皆さんから多くのことを学んでいる。
     東京大学先端科学技術研究センターの客員教授も務めたし、東京大学経営審議会委員も務めている。
     還暦を過ぎて、人生はますます充実している。
    還暦を過ぎてからゴルフを始め、島田杯コンペも主催するようになった。毎回100名ほどの参加者があり、今年5月には第4回島田杯コンペを開催する。ゴルフは人を楽しくするスポーツだと思う。ゴルフはうそをつけないスポーツだ。例えば林の中にボールが入ったときにひそかにボールを動かしても、おそらく他のプレーヤーには気付かれないだろう。それでもボールを動かしてはならない。なぜなら神様の前には隠せないからである。また、他のプレーヤーがアドレスに入った時には、決して邪魔をしてはならない。小鳥のさえずりすら気になるからである。このようにゴルフは自分に厳しく、人に優しく、自然を大切にするスポーツだと思う。私はこれこそ、教育の神髄ではないかと思うようにすらなった。あるとき、私の学校時代の同級生である河村文部科学大臣に教育のエッセンスが凝縮されているゴルフを公立の中学校の成果に採用すべきではないかと進言したが、河村大臣は私の意見の変わりように目を丸くしていたのが印象的だった。
     スキューバダイビング、ボート、ヨット、スキー、水泳などのスポーツも行っている。埼玉県の戸田にはボートを置いているし、猪苗代湖にはヨットを置いている。水泳では1500メートルを50分で泳いでいる。
     絵も描いている。昨年10月にシャネルで個展を開いた。その際には8日間毎日レセプションを行い、合計1000人を招待し、一般の来場と合わせ4000人が来館して下さった。これは全日空の機内誌である『翼の王国』でも取り上げられた。私は幼い頃に岡田謙三画伯に師事していた。幼い時の私は病気がちでひ弱な子供だったので、両親は何か得意なものを身に付けさせようと考えたのだと思う。私は岡田画伯のアトリエに通って絵を学んだ。天才画家の刺激を受け、私はさまざまな賞を受賞した。アメリカのLIFE誌が取材に来て、同誌の1950年1月15日号に一頁全部を使って取り上げられた。このことをシャネル・ジャポンのリシャール・コラス社長に話したところ、銀座のシャネルのビルで個展を開催するように勧められた。そして私は伊豆のアトリエで出展する作品を描いた。今、絵は私にとって人生の友である。
    歌も始めた。日本の人間ドックの創始者というべき松木康夫氏から誘われ、カンツォーネを歌っている。これは良い健康法だと思う。
     そしてこのたび、加藤寛先生から連絡をいただき、千葉商科大学の学長への就任を打診された。私にとって加藤先生は「心の指導教授」と言うべき人物であり、これは「天の声」だと思って引き受けることにした。この4月から千葉商科大学の学長に就任する。従って慶應義塾大学を定年まで1年を残して早期退職する。塩澤学部長はじめ関係者の皆様には大変なご苦労をおかけしたことをお詫びしたい。
     これまでの半生を振り返ると、私の半生に悔いなし、と言える。教育は天職だったと思う。私は人の成長を見ることが好きだ。そして人の成長をお手伝いできることはさらに嬉しいことだと思う。成長していく人を見ると役に立ちたいと思う。教育は天職だと思う。加藤先生から機会をいただき、これからもう1つの人生にチャレンジしたい。若い人々の教育のためにもう一度役に立ちたいと思っている。
     こうした私の半生を振り返り、これからの時代を担う若い人々のために参考になればといくつかの提案をさせて戴きたいと思う。

Ⅲ. 世界の流れと日本

  1. 若い諸君へ
     私は1943年に生まれた。太平洋戦争の最中だ。爆撃そのものについてはよく覚えていないが、戦後の焼け野原のことはよく覚えている。アメリカ兵がジープで走り、子供がジープに駆け寄ってギブ・ミー・チョコレートと叫ぶとチョコレートを投げてくれた。チョコレートはおいしかった。アメリカ兵は格好良いと思った。コカ・コーラを初めて飲んだときには感激した。アメリカ人は背が高く、格好が良く、英語を話すアメリカ兵は憧れの的だった。後年、落合信彦氏がある随筆の中で「アメリカに泳いでも渡りたかった」と書いていたが、私も全く同じ気持ちだった。私が育った戦後の日本はそのような雰囲気だった。
     私は英語に憧れた。今でこそ不自由なく英語を話せるのだが、そこに至るまでには苦労があった。高校生の頃、私の家に仕事に来ていたペンキ屋さんから、早稲田大学に通っている知人は英語が得意だと聞いただけで憧れを感じた。そして、その早稲田大学の学生はアメリカ人に直接に話しかけて英語が上達したと聞いた。その後、ある夏の日、千葉で水泳をして帰る途中、国電の総武線の車内で私の隣にアメリカ人が座った。おそらく立川に向かう空軍兵士だったのだろうと思う。迷った挙句、彼の肩を叩き、“I am a high school student.My name is Haruo Shimada.”と話しかけたところ、“So what?”と言われた。それだけで私は嬉しくてまた頭の中が真っ白になるほど興奮して電車を飛び降り、ルンルン気分で家に飛んで帰ったことを覚えている。そんなことがあって、私はますます英語を勉強しようという意欲を強めた。
     その当時はガリ版の時代だったが、私はタイプライターが欲しくてアルバイトで貯めたお金でタイプライターを買った。その頃、私の家の近くに外国人の宣教師が住んでいた。私が書いた作文を英語に訳してその宣教師のところに持っていくと、私の英文を手直ししてからテープに吹き込んでくれた。私はそのテープを繰り返し聴いた。さらに、声だけではなく身振り手振りまでその宣教師と同じようになればよいと思いながら繰り返し暗唱し、英語を自分のものにした。そして慶應の英語のスピーチコンテストに出場したところ、欧米から帰国した学生たちを上回る上位の成績を収めることができた。この経験は大きな自信につながった。また、私の家にアメリカから交換留学で来日した学生がホームステイをしていたことがあった。その学生は、金髪の女子学生で、本名をElizabeth Taylorと言った。彼女は、体格の良い明るい女性でそう呼ばれるのが嫌で、自分をMuffy Taylorと呼んでくれと言った。私は毎日、彼女を部屋に訪ね、キャンパスでもいつも一緒に過ごし、想いの他英語が上達した。そして先ほども述べたように東京オリンピックの通訳に採用されたし、経済部門のトップの評価でフルブライト奨学金を得ることができた。
     時あたかも高度経済成長期である。古書店で買った本に写真が載っていたダンロップ教授が私の研究室を訪問してきた。夢ではないかと思った。一言で言えば、私たちが生きてきた時代とは、夢が現実になりえた時代だった。私は、「私たちが生きた20世紀」という特集を掲載した『文藝春秋』の2000年2月臨時増刊号に「夢が現実になりえた時代」を執筆した。20世紀とはまさに夢が現実となった時代だったのだと思う。平川祐弘氏の著書に『進歩がまだ希望であった頃 フランクリンと福沢諭吉』という本がある。現在の人々は、進歩が希望であるという考え方は進歩史観に過ぎないと批判するかもしれない。しかし進歩は希望でなければならない。私が生きてきた時代は夢が一歩一歩実現していった時代、神様だと思った人物と会話をすることができた時代だった。
     しかし、現在の若い人々が生きる時代は、私の生きてきた時代とは大きく異なるものになる。私はガリ版の時代に生きたが、現在の若い人々はパソコンとモバイルを使う。かつては世界の情報を入手しようと思ったらアメリカに行くしかなかったが、現在ではパソコンをクリックすればウェブで世界の情報を入手できる。学期末や卒業前には世界旅行ができる。英語を勉強したければ簡単に語学留学ができる。欲しいものが何でも手に入る時代である。しかし、逆に考えてみると、夢を持てなくなっている時代なのかもしれない。

  2. 激動する世界
     私が育った時代と現在の若い人々の時代とは環境が大きく異なる。私たちの世代は泳いででもアメリカに行きたいと思った。アメリカがすべてだった。アメリカが目標であり、アメリカが夢だった。そして努力すればアメリカに行けると思い、努力をしてアメリカに行った。経済成長も続いた。資源は技術革新によって無限だと考えていたし、環境制約は理論上の可能性に過ぎなかった。
     しかし、これらの条件は大きく変化した。資源の問題や環境制約はリアルな問題になった。また、アメリカは依然として重要な国ではあるが、目標の1つに過ぎないものになった。アメリカだけを目標としていたら、これからの時代には世界観を構築できないと思う。世界におけるアメリカの地位は相対化した。2003年にゴールドマンサックスが“Dreaming with BRICs :The Path to 2050”という題名の予測を発表している。これによると2005年の日米欧のGDPは21兆ドルであったのに対してBRICsのGDPは4兆ドルに過ぎなかった。しかし、2020年には日米欧のGDPが30兆ドルであるのに対してBRICsのGDPは12兆ドルに達する。2040年には日米欧のGDPが45兆ドルであるのに対してBRICsのGDPは47兆ドルとほぼ同水準になり、2050年には日米欧のGDPが52兆ドルであるのに対してBRICsのGDPは85兆ドルに達するという。現在の若い世代はその時代に生きていくことになる。
     特に中国・インドの成長が著しい。私は10年前に『日本再浮上の構想』を発表した。その中で成長会計と世界貿易マトリックスとを使用してシミュレーションを行っているが、中国で改革・開放が進み、日本も改革が進んだという想定の下では、購買力平価で考えると中国は2007年頃にアメリカと肩を並べ、2020年にはアメリカの2倍の規模になるという結果が出た。実際の数値はこの推計を下回っているが、基本的にはこの方向に向かって進んでいる。軍事力はGDPの関数である。中国は最近、宇宙空間で人工衛星を破壊する技術を開発したし、中国海軍は空母艦隊を構築してブルー・ウォーター・ネイビーへと拡大していくと思われる。
     また、現在の世界経済を見ると、かつての景気循環とは異なる現象が起きている。現在の日本では過去最長の経済成長が持続している。しかし、アメリカでは7年にわたって経済成長が続いているし、イギリスでは16年にわたって経済成長が続いている。先日、山﨑養世氏が『米中経済同盟を知らない日本人』という興味深い本を発表した。これによると、現在の経済成長は中国やインドが成長したことで新しいフロンティアが開けつつあることが原因だという。中国やインドは労働力が豊富であるので賃金も上昇しない。そしてポイントは世界の情報化が進展しているということである。情報化が進展していると同時に、中国やインドは世界各国から投資を受け入れている。投資を受け入れるということは外国からノウハウやマネジメント、新しい考え方などが入ってくるということでもある。低賃金だが熱心に働く人々と新しいマネジメントとが組み合わさることで強力な経営が実現する。実際にそのような事例が次々と現れている。このようにして世界経済の革新が進んでいくのかもしれないが、それはどこに進んでいくのか。これは現在の若い人々が直面する問題なのである。

     世界では人口爆発が続いている。2006年には65億人だった世界人口は、2050年には91億人に達すると推計されている。特にアフリカでの人口増加が著しいと考えられている。食料やエネルギーの確保が大きな問題となる。
     食糧生産の面では遺伝子組み換えのような技術革新が進むであろう。それでも分配面には問題がある。本当に食料を必要とする国では生産が不足するためである。これは政治・経済に関する知恵を総動員しなければならない問題である。
     一方、エネルギー供給については代替エネルギーの研究や原子力の利用などの技術革新が進展している。東京大学の小宮山総長は植物の利用に関心を持っている。現在の私たちが使用している化石燃料も生物に由来している。地球上の植物はエネルギー源になりうる。とうもろこしをエタノールにして利用するという発想もその1つである。このように発想していくことによって大きな可能性が開けると思う。

    環境制約の強まりもリアルな問題となっている。地球温暖化が加速している。先日、北海道のニセコを訪ねたところ、オーストラリア人だけではなく、イギリスやフランスから来たスキー客もいた。今年はスイスで雪が不足しているために北海道に来たのだという。
     温室効果の進展は気候変動や災害の多発、生態系の混乱といった問題を発生させる。そして農産物に甚大な影響を与えることが懸念される。さらに大気・水・土壌の汚染も深刻である。宇宙の汚染の問題も懸念される。現在の若い世代はこれらの問題に直面せざるを得ない。

     安全保障の面では、冷戦時代は日米安保体制が命綱だった。依然として最も重要である。沖縄の人々にその重圧がかかっている。
     しかし現在では中国の重要性が高まっている。先ほども述べたように中国のGDPが実質でアメリカの2倍になる日が遠からず来る。これは軍事力を支える力になる。核拡散も進んでいる。テロの問題もある。テロは敵が見えないし、宣戦布告もない。情報を得ることも難しい。それでもテロとは戦わなければならない。テロにはさまざまな原因があるとされるが解決は容易ではない。アメリカはアフガニスタンを攻撃し、続いてイラクを攻撃した。イラク問題は泥沼化している。イラク問題を見てもアメリカ的民主主義を唱えるだけでは簡単には解決しないことが明らかである。かつてサミュエル・ハンチントン教授が『文明の衝突』という本を発表した。世界は文明の衝突の答えを見出していないが、安全保障問題はこのような問題につながっているのではないかと思われる。

     かつての日本では若い人々が多かった。しかし、今年、226万人が60歳になる。その一方で20歳の人口は135万人、小学校1年生は110万人である。元気な高齢者が多いが、日本は高齢化が進んでいる。そして人口が減少していく。私は、これからの日本が直面する問題の相当な部分は人口減少と高齢化によって説明することができると考えている。現在の日本の人口は1億2800万人であるが、人口問題研究所によると2050年の人口は中位推計で9500万人、下位推計で8900万人である。1世代で3300万人ないし3900万人がいなくなるということである。韓国の人口が4000万人であるから、その影響の大きさが分かる。
     人口減少の結果、経済成長は鈍化することになろう。生産性を上昇させても人口が減少していくのだから国内市場が拡大することは難しい。多くの分野で市場が収縮していくであろう。しかし企業は成長しなければならない。企業は資金を借り入れている以上、成長しなければ金利を払うことすらできなくなるためだ。国内市場が成長しないのに個々の企業は成長しなければならないのだとしたら、企業の成長は海外に求めるしかない。現在、既に旭硝子は生産の半分を海外で行っているし、トヨタ自動車も生産の半分以上を海外で行っている。これから企業に就職すると、中国やインドに赴任する可能性は高いと思う。今後の日本企業のモデルは韓国のサムスンである。現在でも生産の半分くらいは韓国国内で行っているが、売り上げの大部分は韓国国外分とすることを前提として商品開発を行っている。現在、日本の半導体メーカーはサムスンとの競争で苦戦しているが、その背景にはサムスンが当初から徹底的な国際化を図っていたということがある。
     島田ゼミでは韓国とも交流を行っている。島田ゼミの学生は大学からの助成金を受けずに参加しているが、例えば韓国の延世大学はグローバルマネジメントチームを編成している。3・4年生を対象として、世界各国を訪問してレポートを書くというプログラムがあり、その費用として奨学金を支給している。島田ゼミが韓国を訪問すると、韓国側からは大学の宿泊施設に宿泊するように勧められる。しかし私はその申し出を断っている。その理由は慶應義塾大学には海外から訪ねてきた学生が宿泊できる施設がないからだ。

     財政破綻の問題も深刻である。GDPが500兆円であるのに対して、国と地方とを合わせて800兆円の長期債務を抱えている。先進国の中で最悪の水準である。小泉内閣は小さな政府を目指して改革に取り組んだが、この問題を抜本的に解決するためには社会保障の改革が必要である。私たちが年を取ることが財政負担を増やすのである。しかし、年を取ることを責めることはできない。それでも国民全員が年を取ると制度が破綻に向かう。これは、若年者が多く、かつ経済成長率が高かった時代を前提に社会保障制度を設計したということに問題があるのである。現在の制度とは全く異なる制度へと変更しなければならない。この問題はあまりにも難しい問題であるため、誰もが思考停止に陥っている。しかし、次の世代にこの問題を押し付けたら、私たちの世代は無責任だという批判を受けなければならない。持続可能な制度を作ることは私たちの世代の責任だと思う。新しい高齢成熟社会に適合した社会保障システムを再構築しなければならない。

     今後、日本では労働力が減少していく。2050年に人口が3800万人減少していると仮定すれば43年後には2500万人の労働力が失われることになる。外国人労働力を受け入れるべきだという考え方もあるが、受け入れられる外国人の数は多くても200万人くらいが限度になると思う。現在、政府では子育て支援に力を入れている。これは良いことである。これまでは高齢化のみが注目されて多額の予算が投じられてきたが、現在では子育ての問題も注目されるようになっている。今後は出生率も上昇すると思われる。しかし、現在の日本の合計特殊出生率は1.25である。日本で人口を維持するためには合計特殊出生率が2.08以上であることが必要だとされる。このため、子育て支援の効果によって仮に合計特殊出生率が1.25から1.30に上昇したとしても焼け石に水といわざるを得ない。しかし、それでも少子化対策は実行しなければならない。なぜなら、私たちは日本人である前に人間であり、人間の最大の使命は種の維持だからである。労働力不足の問題を解決するためには生産性を向上させるべきである。とりわけ4000万人が働いているサービス業・流通業・農林水産業・建設業の生産性は低い。これらの分野において生産性が向上しない理由は官製市場が形成されて規制や保護が行われ、競争が阻害されているためである。例えば住宅をリフォームする際に複数の会社に見積もりを依頼するとさまざまな数字が出てくる。競争が行き渡り、情報が開示される状態であれば最も低い価格に収斂するはずである。それは競争が必然的に実現する結果である。規制改革を行うことによってこれらの産業で生産性を2倍にできれば2000万人の労働力を節約できることになる。2000万人の労働力を節約できれば高齢化・少子化による労働力不足を心配する必要はない。現在の若い世代には生産性の向上を実現させるという課題を負っている。

     貯蓄率も低下している。GDP比で見るとイギリスの水準を下回った。かつての日本は豊富な家計の貯蓄で高度経済成長を実現し、今日では財政赤字を負担している。しかしその構図は変わった。この問題に対する最も有効な対策は門戸開放である。門戸開放によって海外から安定した質の良い資金を導入することである。確かに貯蓄率の低下を放置すれば金利が上昇して海外から資金が流入してくると思われる。しかし、そのような状況では日本の産業界は大きな打撃を受けているであろう。金利が上昇しなくても海外の投資家が自ら進んで日本に投資をしてくれるようにしなければならない。そして投資が行われれば海外から技術や人材も流入してくる。これはイギリスが既に実践していることであり、その結果イギリスでは16年にわたって好況が持続している。イギリスには「ウィンブルドン現象」という言葉がある。ウィンブルドンのテニストーナメントに出場している選手の大部分はイギリス以外の国の選手である。同様にロンドンのシティで活躍している会社を見ると大部分はイギリス以外の国の会社である。私は政府の対日投資会議の専門部会長を務めており、イギリスで調査を行ったことがある。その際にあるイギリス人が「外国からわざわざ入ってくるのだから国内企業が持っていないものを持っているに違いない。そのような会社に雇われたら『おめでとう』と言う」と発言した。イギリスは19世紀に世界の海を支配して巨額の海外投資を行う一方で、海外から受け入れた投資は少なかった。しかしサッチャー氏が首相に就任した頃には産業が崩壊状態に陥っていた。そのイギリスで「ウィンブルドン現象」が起きている。日本もイギリスの後を追わなければならない。そのためには心を広く開かねばならない。大相撲では外国出身の力士が活躍し、日本人が外国出身の力士を応援している。他の分野でも、力のある者が活躍すればよいという気持ちを持つことができるだろうか。

     地方の疲弊も進んでいる。人口が減少していくのであるから多くの地域が機能不全に陥るであろう。私は、地方が生活産業や観光を発展させることによって大都市の住民を受け入れるという運動を起こしたいと考えている。高齢社会のキーワードは健康であり、健康の三大要素はきれいな空気、きれいな水、そして静けさである。さびれている場所はこれらの要素を満たしている。しかし、さびれているだけでは都市住民は移り住まないであろうから、地元の人々が工夫を凝らし、移り住んでも安心で、生活費もあまりかからずに楽しく生活できるという条件を整える必要がある。この点で最も成功している自治体は北海道の伊達市だと思う。小泉前首相や竹中氏も伊達市に注目していた。伊達市は1つのモデルになると思う。私は国民的な大運動を起こしたいと考えている。大規模なデジタルネットワークを活用し、地方の生活・健康関連の情報が都市住民の携帯電話に送られるようにしたいと考えている。

  3. 時代の流れと本質を見る
     これからの時代は、私の時代と異なり、アメリカを目標にして努力をすれば足りる、英語を学べば足りるという時代ではない。また、慶應義塾大学で学ぶべきか否かということ自体、よく考えなければならないと思う。私は、しばしば学生たちに「君たちの隣に世界の俊秀が座っているか」と問いかける。人生は一度しかない。世界の俊秀がいる大学で学ぶべきだ。
     今、新しい時代に入った。課題が多いということはチャンスが多いということでもある。大変な挑戦のチャンスがある。
     現在の世界を見ると多角的・流動的・多元的である。砂状化が進んでいるようにすら見える。そのように見える理由は問題意識がないためだ。問題意識がなければ何を見ても砂のようにしか見えない。問題意識があると見えてくる。では、どこに問題意識を置くべきだろうか。
     福沢諭吉は封建時代から近代に移行する時に活躍した。その頃に民族国家が形を整えた。現在においても民族国家は重要である。将来においても日本という国は私たちの最後の拠り所である。例えば私たちが外国で危害に遭遇したときに最後に救ってくれるのは日本国である。私たちが肩を寄せ合って良い国を作り、その仕組みで私たちは命を支えられている。民族国家は終わらない。しかし同時に、現在は個人が民族国家の枠を超えて活躍することができる時代が来ている。個人の活躍が世界大になる可能性がある。

     日本のように小さな島国が世界の中で民族国家として生き残っていくためには、徹底して世界の諸国と共存しなければならない。そのためには怜悧な同盟関係の構築が重要になる。戦後の日本は日米同盟を構築した。日本はかつて日英同盟を破棄し、その後に悲惨な運命をたどった経験がある。今後は中国・ロシア・インドといかなる関係を構築するべきかという問題を考えなければならない。さらに世界の人々から愛され、信頼される国であるために、世界への貢献について真剣に考えなければならない。

     ニューヨーク・タイムズのコラムニストであるトーマス・フリードマン氏は『The World is Flat』という本を発表し、ベストセラーになった。フリードマン氏はかつて『レクサスとオリーブの木』という本を書き、この本もベストセラーになっている。レクサスとはトヨタ自動車が製造している自動車である。レクサスの近代的な工場の中ではロボットが活躍している。フリードマン氏はこれを情報化時代の世界の最先端だと描いた。一方、オリーブの木が生えているアラブの地では人々が戦いを続けている。同じ世界なのになぜこのような差が生じているのか。その原因はデジタル・デバイドである。情報化の恩恵に浴せない人々が悲惨な状態に置かれている。大変なスピードで走行している情報化という名前の列車を止めようとしても、機関車には運転士の姿はない。誰のコントロールも受けずに情報化が進んでいる。フリードマン氏はこのような状態が続くと大変な事態が起きると予言した。そして実際にアメリカで同時多発テロが発生したため、フリードマン氏はアメリカの寵児となった。しかし、その時にはフリードマン氏の思考はさらに進んでいた。デジタル・デバイドの問題を指摘するにとどまらず、この先の世界はどのようになるのかという問題を考えていた。そしてフリードマン氏はインドのバンガロールにあるインフォシスという会社を訪ね、同社の社長と議論を行った。ふとインフォシスの敷地から遠方を見渡すと、ケンタッキーフライドチキンの店があり、アメリカのボストンと変わらない風景が広がっていた。そこでフリードマン氏は、“The World is Flat”ということに気付いた。情報を使える人々にとって、自分がアメリカにいるのか、あるいは発展途上国にいるのかということは何の意味も持たない時代になった。かつてコロンブスが地球は丸いと考えた。現在の情報化時代において、地球は平らである。現在の若い人々はそのような世界に生きることになる。情報リテラシーのない人は水面下に沈む。情報を使えれば世界的な活躍も不可能ではない。
     梅田望夫氏は『ウェブ進化論』という本を発表し、ベストセラーになった。梅田氏によればマイクロソフトは時代遅れになったのだという。マイクロソフトはブラックボックスを作り、世界中に自社の製品を販売した。一方、リナックスの世界では誰もが自由に参加できる。ウェブ1.0の世界はマイクロソフトが切り開いたが、ウェブ2.0の世界は開放系なので誰でも参加することができるようになった。それではポスト・ウェブ2.0の時代はどのような時代になるのだろうか。現在、グーグルが出現して急成長を遂げている。グーグルは数万台のコンピューターをネットワーク化し、あらゆる情報の組織化を図っているという説もある。その真偽のほどは分からない。しかし、新しい時代が来たのである。
     若い世代の皆さんは、時代が大きく変わろうとしている現在の歴史状況をどのように捉えているのだろうか。どのように認識し、どこに自分自身の役割を見出すのだろうか。アメリカを目標にすれば足りるという時代は終わったのである。皆さんは何をするのだろうか。

Ⅳ. 福沢先生に学ぶ

  1. 「一身にして二世」を生きたり
     中津藩の下級武士の子供として生まれた福沢諭吉は、晩年に書いた『福翁自伝』の中で「一身にして二世」を生きた、と述べている。福沢諭吉は1834年に生まれ、1901年に没している。34歳のときに明治維新を経験している。福沢諭吉の人生を振り返ると、前半の34年間は封建時代、後半の34年間は近代日本に当たる。そして福沢諭吉は近代日本を作った人物である。福沢諭吉は歴史の断層を見た。現在の若い世代の人々も同じような状況にあると思う。

  2. 時代の転換を感じ、学ぶ
     福沢諭吉は好奇心・探究心・実証主義的精神の旺盛な子供だったという。そして長崎で蘭学や砲術を学んだ後、大坂に行って緒方洪庵の下で学んだ。緒方洪庵は医学者なので、医学・物理学・化学などを中心に学んだ。その後、江戸に出て蘭学で身を立てようと考え、横浜に行ったところ、英語でなければ通用しないということに気付いて大変なショックを受け、英語の勉強を始めた。後に福沢諭吉は最初に英和辞典を編集した人物の1人となる。そして1858年に築地鉄砲洲の奥平家中屋敷内に蘭学塾を開くが、これが慶應義塾の起源となる。その後、1860年1月に咸臨丸に乗って渡米し、5月に帰国した。このとき、民主党員と共和党員とが同じテーブルで食事をしている場面を見てショックを受けたという。当時の日本であれば政治的な意見が違えば斬り合いになる。しかしアメリカでは議論で相手を論破し、そのことによって国民から支持を集めている。これが民主主義だということに気付いたのである。その後、福沢諭吉は、自分が考えていることを話して他人を説得するという方法を日本でも普及させるため、「演説」という単語を作り、三田で演説を実演してみせたという。

  3. 文明の本質を喝破
     その後、福沢諭吉は1862年1月から12月まで、幕府欧州派遣使節の随員としてフランス・イギリス・オランダ・プロシャ・ロシア・ポルトガルを歴訪した。そして各地を観察し、資料を集めてきた。言葉を理解できなくても銀行を訪ねて定款をもらってきたという。そして1866年に『西洋事情』を発表し、これもベストセラーになった。
     当時の江戸の建物は木と竹と紙で建てられており、火事が起きるとすぐに大火になった。しかしパリではセーヌ川に大理石の橋が架かり、金色の騎士像が建てられていた。福沢諭吉はこの彼我の文明の差が生じる理由を考えた。そして、建物を建てると文明国になれるわけではないと喝破した。1872年に発表した『文明論之概略』において、文明とは智徳の進歩する状態だと気付いたのである。智とは現在ならば技術や経済などが該当する。一方、徳には私徳と公徳とがある。私徳とは家族を愛し、育て、自らが一社会人として完成することであり、公徳とは自覚を持って社会を支えていくことである。そして、智と徳とを兼ね備えた国が文明国なのである。

  4. 学塾で人材育成
     文明を担うためには人材が最も重要である。このような人材を育成するための塾が慶應義塾である。そして慶應義塾の精神は独立自尊であり、慶應義塾の塾生たる者は自ずから「気品の源泉」たることを求めた。慶應義塾は1858年の開塾から数えて来年創立150周年を迎える。1867年に芝新銭座に移転し、1868年に慶應義塾と命名され、1871年に三田の現在地に移転した。
     福沢諭吉は1871年に『学問のすゝめ』を著した。当時、70万部が売れたという。これは現在ならば1000万部にも匹敵するだろう。当時、字が読める人の蔵には『学問のすゝめ』があったと言われる。福沢諭吉は「一身独立して一国独立す」と述べた。現在の若い世代の人々も歴史の断層に直面しているが、150年前の日本を見ると鹿児島がイギリスの攻撃を受けて焼き払われており、清朝のように半植民地化される危険すら存在していたのである。この危機を脱却するために日本は一刻も早く文明国になる必要があった。文明とは智徳が進歩する状態であり、文明を支えるのは人材である。『学問のすゝめ』は「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」で始まる。これはジェファーソンの言葉に由来するとされている。福沢諭吉は次のように論じる。現実には豊かな人や貧しい人がいる。しかし天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらずと言われている。人間は生まれながらにして平等であるが、なぜ豊かになり、あるいは貧しくなるのか。それは学問をする心の有無で決まるという。
     1879年に福沢諭吉は交詢社を設立した。当時、国会開設に備えて伊藤博文はドイツに学んでいた。当時のドイツは強力な権力で統治をする国家であり、伊藤博文はこのような国家のあり方を学んでいる。一方、板垣退助は大衆民主主義的な面がある。これに対して福沢諭吉は、常識・知識を具備して実行力を有する人々が全国で仕事をし、1人が100人を教育すれば日本は文明国になれるという発想を持っていた。このために各地の名望家に交詢社のメンバーになるように誘い、交詢社を設立した。さらに1882年には時事新報を発刊して論陣を張っている。福沢諭吉は、社会が大きく変わるときに、列強諸国に踏みにじられないようにするためには人材を育成し、思想を敷衍していくことが重要だと考えて、これらの活動を行っていたのである。福沢諭吉が考えていた民主主義はイギリス流の民主主義である。イギリスはジェントルマンがコモンセンスによって政治を行っている。このために成文憲法を必要としていない。
     福沢諭吉は勲章を受章していない。しかし福沢諭吉の門下からは名宰相が現れた。犬養毅、最近では橋本龍太郎氏や小泉純一郎氏を挙げることができる。産業界では、当時の日本で最大の産業である繊維産業で鐘淵紡績を創立した武藤山治、電力事業では東京電力につながる東京電灯を創立した松永安左右衛門や福沢桃介、千代田生命を創立した門野幾之進らを挙げることができる。 福沢諭吉は、激動の時代に際して文明の本質を見抜き、誇りを持って独立自尊の精神で生きたのである。

Ⅴ. 何をめざして生きるか

 知は力なりと言う。私たちが見ることができる物、触れられる物は限られている。しかし学問をすることによって3000年前のことを知ることができる。学問をすることによって地球の反対側のことを見てみたかのように語ることができる。学問をすることによって未来を予測することができる。学問をするか否かで豊かな人と貧しい人とが分かれる。まずは勉強することが必要である。

 しかし知識はそれだけでは単なる情報に過ぎない。1つのツールに過ぎない。最も重要なことは、何のために学ぶのか、自分は何を目指して生きるか、何のために生きているのかという情熱である。その問題意識があってこそ情報が命を持つのである。現在の若い世代の人々は英語を勉強しようと思ったら簡単にホームステイをすることができる。しかし福沢諭吉は命がけで欧米に渡った。そして言葉を理解できなくても定款をもらってきて門弟達に日本で実践させた。ほとばしるような問題意識があった。

 現在の若い人々が生きる時代は、産業・経済が大変に発展した時代である。その反面、地球環境問題が深刻化した時代である。人類の平和と繁栄のためには全く未知の取り組みが必要になっている。テロの脅威が高まり、個人の安全保障が脅かされる時代でもある。そして同時に、個人が学問・仕事に励めば富を蓄えて大きな力を持つことが可能であり、その力を使って世界に貢献できる時代でもある。
 ビル・ゲイツ氏はマイクロソフトの事業で巨万の富を蓄積した。そしてビル・アンド・メリンダ財団を設立した。基金の残高は3兆円に達するという。そしてアフリカのエイズを撲滅するために今後10年間に50兆円を投じるという。私も今野由梨氏と共に同財団が主催するパシフィック・ヘルス・サミットに参加しているが、これは普通の国が投入できる金額を大きく上回る。さらに中国やインドのデジタル・デバイドを解消することに取り組むという。
 日本は優れた技術を持っている。しかし日本の技術は必ずしも世界で利用されていない。例えば日本の携帯電話は日本独自のプロトコルを使用しているために外国では使われていない。NHKも豊富なコンテンツを有しているが、世界では利用されていない。しかし、ビル・ゲイツ氏のよう一生懸命に働き、膨大な富を蓄積し、それを世界のために使うという活躍の方法が存在しているのである。

 皆さんには無限の可能性がある。考え方によってはこれほど面白い時代はない。幸運だと思う。もちろん、努力をしなければならないが、最大の力は人との巡り会いだと思う。自分の努力にふさわしい人と巡り会うことができる。努力をすれば自分の力と器に見合った友人ができる。それが本当の友人である。本当の友人を作って欲しい。そして、さらに重要なことは、物事は1人ではできないということである。このことは会社を経営したらすぐに実感することである。他人が一緒に行動してくれなければ事業はできない。これは事業を営む場合に限ったことではない。政治に携わる場合も同様だし、学問を志す場合も同様だ。良い友人を持ち、多くの人の協力を得てこそ物事は成就する。
 皆さんには無限の可能性が開かれている。今日において、科学技術は地球から宇宙へと拡大し、その一方でナノテクやゲノムといった見えない分野でも進歩している。

 そして、世界中の人々が皆さんのことを見ているということを自覚して欲しい。私にはきれいな軍服を着たアメリカ兵達がジープの上からチョコレートを投げる光景が焼き付いている。今の日本人が世界の人々からどのように見られているか考えたことがあるだろうか。大学を卒業して会社に入ると毎月20万円、30万円の給料を手にする。会社の役員クラスになれば数千万円の収入を得ることも不可能ではない。これはアメリカ人の所得と比較すれば高額の所得だとは言えないだろう。しかし多くの国の人々にとっては大変な金額である。世界の人々は皆さんのことを、自分たちの数百倍の収入を得ている若者たちだと見ている。羨望と嫉妬を感じながら日本人を見ているのである。皆さんにはそれにふさわしい生活を送っていただきたい。朝、目が覚めたら、世界が見ていることを思い起こし、その期待にふさわしいことをしようと思って欲しい。「今日は何をしでかそうか」と考えて欲しい。「何かをしでかす」ということは、精一杯の力を尽くして誰かにインパクトを与えるということだ。それが先進国に生まれた私たちの使命だと思う。
 私は、人生の終わりに孫から「お爺ちゃんは何をしてきたの」と問われたときに、「君たちが安心して楽しく生活できる社会を作ったのは私だよ」と言って死にたい。私たちは次の世代のために戦っているのだ。

 今日は私の人生で最良の日だ。これから新しい旅に旅立つ。皆さんと共に進んで行きたいと思う。よろしくお願いしたい。心より感謝を申し上げる。

以上